天災について考える

先日、ある方が今回の地震についてお話をされました。

この地震を自分の事として捉える事。そして毎日我々が生かされているという事に感謝をして通るという事。

当たり前の事を当たり前に話されたのですが、これが実に僕にとって刺激的だった。“この地震を自分に起こった事してて捉える事”。これはまさに他者への思いやりと、自然に対する感性だと僕は思う。どれだけこの大事態を想像できるかということだ。だからここに心を寄せて今自分がしなければならない事に集中しなければならないと改めて感じた。

人間というのは深い所ですべて繋がっている。例えば東洋医学の針治療なんかは(医者でないので詳しくは知りませんが)一つの箇所を治療するのに全体を見て、体全ての繋がりを見ていくようだ。すべてが繋がっていて、人の体は小宇宙と考えられている。要するにバランスである。

こういうふうに考えるとき、どこかの歪があの東北という場所に起こったと考えれば人ごとであるとは考えにくい。今多くの方々が懸命に復興に向けて動いてるときだからこそ、少なくとも僕は僕自身として自分の生き方に反省をしたいというか、少なくとも、自分に対し何かが、何かを急きこまれていると感じる必要がある。というか感じるよう努めなければならないと思っている。

以前ローマ教皇がソーシャルネットワークの有用性、危険性について述べた事がある。現代は人と人との直接的な繋がりが希薄になったと言われている。一方でオンラインでの会話は急激に増え、顔を知らない人とさえも気軽に話出来る時代になった。オンラインの会話は本来の人間関係ではないと述べておられたが、今回twitterやfadebookでは海外からたくさんの励ましの言葉が送られてきて、これは大きな意味を持ったと思うし、世界というもは繋がっていると事を実感できた気がする。

それと今海外にいる僕にとって日本人の道徳の高さにも改めて感じいったし。これはとても誇り高きことであった。僕はこの日本人の道徳の高さは日本人の自然に対する感性の強さだと思っている。自然には逆らえないという事を本能的に知っていて忍耐強く過ごす。宗教を持たない人が多いと言われている日本だが、これほどの被害の中でのあの忍耐強さは他のどの国の強い宗教性を持った国であろうがかなうことはないであろう。

オバマ大統領は日本はこの地震を通じさらに強い国になると言った。すごくポジティブだ。かたや天罰と言う人もあろう。どう捉えるかは我々次第。と言っても、当の地震を受け家族を失った方々は辛くて辛くてどうしようもないとも思う。

僕が考えたい事は地震というものをこれからどう捉えていくかだ。社会というものは地震は起こるという前提で物事を進めていく。というのは現実的に社会を作っていかなければならないから。しかし根本的になぜ起こるかという事を人間の生き方と結び付けて考えられる事は少ない気がする。おそらくそこを考えると宗教色がどうしても出てしまうからであろう。

もし世界中の人間の心いうもの、それぞれの人間が心をどういう具合に向けていくかという事が自然の意思(もしそういうものがあるとするならば)、又秩序と結びついているのならば、そしてそういったものが地震というものに関係があるのならばそれは考える必要がある。何百年、何千年という単位で大地震がくるという事は何か意味があるはずだ。東洋医学が全てが繋がっていると考えると同じように、我々人間も全ての人々が繋がり、そしてまた地球と繋がり、もしかしたらそれを超えたものとも何かしら、例えば“気”など、そんなレベルで繋がっているのかもしれない。かもしれない、、

今、原発の処理あたっている方々には深い敬意を示す。しかし、もしかして我々は自然をコントロールできる。多くの天災に現代の技術をもって対応できると未だに思いこんでいるのではないだろうか?そいう奢りは全くなかったのであろうか?

「想定外」という言葉をよく聞くが、想定外が起こるという事は想定しなかったのであろうか。決して震度100に備えるべしと言っているのではなく、自然をコントロールできる、もしかしたらそんな奢りが我々人間にあったのではないかという事である。認識の仕方だ。少なくとも我々の頭の中では自然には適わないという気持ちで準備にかからなければならないのではないだろうか。もちろんやるべき事は同じであり、さらに耐震性の強い建物を作っていくのだと思う。しかし結局のところ我々は自然の一部で生かされているという意識の中で再創造しなおしていかなければならないのではないだろうか。日頃の意識の持ち様で天災への対応は違ってくるはずだ。そして誰かが誰かを批判し責任を押し付けるという社会ではなく、もっと民も官も一体となってこの難局に立ち向かえるのではないだろうか。

地震を予期する力、その他もろもろの技術というのはさらにますます高くなっては行くと思うが、決して自然には及ばない。そこからが復興へのスタートであり、自然に対する感性を育むことであり、そして敬意であると思う、そして結果的に自然との共存に繋がるのだと思う。

今一度我々の社会の目的、幸せの定義、どこに向かって行くべきなのかを見直さなければならない。


そして今もまだ、暴れている龍に対し我々の気持ち、祈りでもって静まって頂くしかない。

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