2010-06-12

電話での話

昨晩久しぶりに、日本の相方と長電話をした。決まって内容は笛の話。

僕は今の師匠に18歳の時から習い始めて、今のように約一年近く習わなかったという時はない。だから今はひたすら道をはずさないように自分で音を探すしかない。

相方は今師匠宅で修行中だ。雅楽に関してはすべてにおいて僕より一枚上だから、そういう意味において僕は彼を信頼している。

昨日はどうやって自分だけで音を探していくかという話だった。一つは自分の感性を信じるという事。これはどういう意味かというと、自分で吹いてて少しでも“違う”と感じるとそれは違っているという事だ。だから少しバックして、しきり直さなければならない。

きちっとした道に乗ると音は自然に動き出す。自然な吹き方というのは無理が生じず、そして答えは針の一点にしかない。しかしその針を通す息と言うのは実に柔らかく強いものであり、所謂雨垂れが岩をも崩していくイメージだ。

柔らかい水が段々と岩をも突き通していくという事が、本来の“練習”をする意味だと僕は昨日捉えた。

答えは一つの場所にしかない。その大きな岩が水滴によって砕ける部分は針の先の面積一か所のみである。

それぐらい龍笛を極めていくという事は困難である。真っ暗闇の中を体の全細胞を働かし感じながら進まないといつまでたっても辿りつけない。

しかしその道に入る事ができそうな瞬間がある。例えそれが勘違いであったとしても、それは“気付いていっている”という事であり、その勘違いに気付いた時が上達している時だ。その感情というのを僕は大切にしている。その発見と勘違いの感覚を持ちながら進んでいくところに笛と共に生きてゆくおもしろみがある。



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