2010-05-17

レポート

ばたばたした一週間でした。

やる事がたくさんあると、だんだんとそれを自然にこなしてくる自分に気付いてくる。それはおそらく自分の中での成長の一つなんだと思う。





さて先週のコロンビア大学の学生さん達のコンサートですが、僕は助っ人として鞨鼓をさせてもらいました。最近僕がここで教えている時のテーマは雅楽を深く習得するには、日本文化の心を学ぶ必要があるのかどいうかということです。

簡単に答えは出したくないのですが、なぜなら日本文化と言っても概念が広すぎて又具体的にどういういう事なのかというのも僕もまだ理解していないからです。しかしオタマジャクシを追うだけでは意味がないという所までは僕の中で結論に達してきたような気はします。

まずは合奏というのはソロではないから自分をある意味殺さなければならない。リードする人間に精神を合わせなければならない。これはただ単に音程を合わすという意味だけでばなく主管の人の音を生かすよう吹かなければならない。だから助管を吹くという事はこの点においては音頭を吹くより難しいと僕は思う。

自分を表現せずに、相手が持っている技術をどういう風に吹けば生かす事ができるのかを考えて吹く。これは所謂相手に花を持たせてあげる“和”の心ではないだろうか。相手を生かそうとすると自分の本来の個性が生かされてこないわけがない。自分ではない人のいい部分を引き出すにはどう吹けばいいかを考えて吹く事が、結果的に自分本来の吹き方を “取り戻す。”

こういった考えが雅楽をする事によって学生さんが感じれるようになったらなあと僕は思うが、これはあくまでも僕の個人的な意見だ。

あとはやはり見た目が雅楽は勝負であるといっても過言ではないと思う。どこの国の人間だというのではなく“凛”としているかどうかだ。この大学のプログラムは1セメスター終わるとコンサートに出ないとだめだから、週一の三カ月だけ練習した生徒でも三か月後は人前で吹かなければならない。その生徒に凛と吹けと行っても無理があるのは承知だ。15年以上やってる僕でも人前に出ると今でも縮こまってしまうのに、、、

さてこの凛というのはもちろん内面から来るものだが、実ははったりが可能だ。それは姿勢を正し、前を直視する事だ。これは僕が以前にも述べたコアーを包む外側の部分である。宗教で言うところの儀式の部分だ。そして実はこれは日本人よりもアメリカ人の方が得意だ。日本人は自信がないと下を向いたり小さくなるが、アメリカ人はそんなのは関係ない。そして練習よりも本番が強かったりする。今回も本番が一番良かった。

何を言いたいかというと、凛とした部分は彼らは持っている。多少僕の言いたい凛とは違うがまあよしとしょう。そして先に述べた僕が提唱する“和”というもの、これは残念ながらまだ彼らにはない。例えば僕がジャズを勉強するとしたら、どういう風にそれが黒人の中から生まれたかを感じようと努めるかもしれない。答えはそういう事だ。

日本の事をしっかり学び日本人がどういう精神で雅楽を重んじ、どのように感じているかという事を学べという事を僕は無理強いしたくない。が、今回演奏を一緒にしてて思ったのは、他国の長い伝統芸術を学ぶという事は、その国の精神というか、心を学ぼうとする気持ちがないと、どうにも、もしほんまもんを目指すのならば難しいのではないかという事に気付いてきたような感じがする。先に述べた“他人に花を持たせ自分の我を殺す事”だ。これは僕が思う“和”の定義だ。彼らにとってはこれはただの1セメスターであったり、ただの1単位に過ぎないのでそこまで僕が考える必要はないのかもしれないが、そういった事を考えてもらうような時間を作るのも悪くないし、これこそが実は音を出せるようになったりする事よりも大切な事かもしれない。



話は少し変わり、先日友人の弦楽コンサートに龍笛で出演してきました。




慣れない曲だったので僕はいくらかミスが出ましたが、まぁ今の僕の実力ではこんなもんでしょうと言いたい。感じた事は、ほとんどの奏者がその道のプロだったから、やはりさすがだった。巧い。全員がかなり高いレベルで合わせてくる。

こういうのは確かにやってて楽しいが、やっぱりやればやる程正直古典をやりたくなってくる。龍笛、雅楽というものをいうもの広めるという点においてはこれも一つの方法であるし、お客さんの評判も決して悪くない。

しかし本当に僕が表現したいものを表現するにはやはり古典をするか、若しくはソロでしか難しいような気もする。

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