形式というもの

知人から聞いた話ですので細かな部分は違ってるかもしれません。

とあるアメリカ人がマンハッタンのビル一角にお茶を楽しむために茶室を作り、何人かの日本人にお茶をさせたそうだ。

とある夏の暑い日に、日本人の先生がたくさんの人を呼びクーラーなしの部屋で着物を着て、熱いお茶を楽しもうとしていたらしい。日本人の先生が例え真夏であっても形式通りにそれをするのはある意味当然かもしれない。しかし普通に考えれば、マンハッタンの真夏のど真ん中で着物を着て熱いお茶なんか楽しめれるはずがない。

このアメリカ人は言ったそうだ。「日本人はお茶の心が分かっていない」と。

そしてこのアメリカ人はお客さんに対し、茶室にクーラーを入れ、ビールと練乳のかかった冷たいイチゴでもてなしたそうだ。

僕はまだまだ何も分かっちゃいないただ突っ走ってる若造だが、確かにお茶というのはお茶を楽しむものだが、“風流”を体で楽しむものであるとも思う。えらそうな事を言ってるのは承知です。

だから真夏にお茶を楽しむというのは、クーラーの部屋で着物を着てビールを飲んだってしっかりと筋が通っている。

お茶自体が大事であるのではないという事はいうまでもない。

形式というのは誠に大事だが、原点を考えず感じるという事を怠ればそれはまったく意味をなさなくなる。

雅楽に置き換えてしっかりと考えねばならない。

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