2010-04-03

雅楽を習得するのに日本文化を学ぶ必要がある?例えば上下関係など

日本の雅楽会には、ほとんどと言っていい程どの団体にも上下関係というものがある。所謂年功序列だ。目上の人を敬うという文化は、たぶん儒教からの影響で日本には仏教とともに入ってきて戦国時代からの武士道ともに育まれてきたものではないかと思う。西洋でいうところの騎士道だ。雅楽を学ぶ時に武士道的な精神である、勇気、正義、惻隠、礼儀、誠実な心というのはないよりあった方がいいと思うが、雅楽は武士から生まれたものではなく貴族のお遊びであった。そして日本に入ってきた雅楽は中国では儀礼に使われていた儀式音楽ではなく俗楽のほうであったと言われている。

日本で生まれた武士道、剣道、茶道、華道などの“道”とつく芸術には作法というものが存在する。雅楽には道という文字は存在しないが、楽器に対する持ち方や動作の順序などの作法がある。そして多くの場合伝統芸術を学ぶ際、年輩の方々から指導を受け、それと共にその芸術に対する心持ちや、日本人としての心意気のようなものも習うはずだ。雅楽の場合、基本的に管絃という舞のない曲を演奏する時、楽座という胡坐を掻いた姿勢をとる。しかしこの姿勢はアジア人以外には長時間演奏するには苦しい姿勢のようであるが、これも一つの立派な作法である。作法というのはそのものに対する敬いの心と、畏怖の表れであると僕は理解しているが、これはその国の人から見た、例えば神などへの気持ちの表れであるから形は千差万別だ。だからといって勝手に自分達の作法ですればいいものでもない。郷に入っては郷に従えという言葉があるように。要するに雅楽を日本人以外が本来の意味で習得するにはこの心意気や、日本文化にある作法というものを学ぶ必要があるのかどうかという事だ。

文化というのは東向きに伝わるというような事を何かの本で読んだ。僕は今、日本からみた東の国であるアメリカに雅楽を伝えようとしている。もちろんアメリカに雅楽を伝えようとしている人は他にも何人かいる。しかし演奏技術のみを教えるというのはたいした事ではないと僕は思っている。なぜなら雅楽譜を西洋譜に置き換えたものが今ではあるし、指を覚えて多少音を出す練習を数ヵ月、数年すれば誰だってそれなりに演奏できる。それなりというのは難しい定義ではあるが。しかし雅楽の実体はどこにあり、本質は何かと考える時これはとてつもなく難しい。僕もまだこの道を究めようとしている段階だから、雅楽とは、龍笛とは“こうだ”とは言い切れない。そして今の僕には雅楽を理解するには日本文化を学ぶ必要があるのかどうかという事についてのはっきりとした答えは持ち合わせていない。しかし少なくとも、こちらで例えば学生なんかに指導する時、雅楽の底辺には、オタマジャクシ以外の“何か”が流れているのではないかという事を考えてもらうようにしなければならないとは思ってはいる。が全くその段階には至っていない。限られた授業時間なので指使いや唱歌を覚えてもらうので精いっぱいだ。中国には日本のような雅楽は今残っていないという事は、日本で完成された雅楽を勉強するには、日本というものを考えるという事も大切なのかもしれない。しかし“日本”を考え出すと収拾がつきそうにないから今日はこの部分は考えないとする。

さて主題にもどる。僕の大学の母校にも厳しい上下関係というものが存在する。先輩がカラスは白だと言ったらカラスは黒だとはいえないような先輩の圧力がある。これは少しいき過ぎた例だが少なくともこれに近いものはある。ばかげた話だと思う方々もいると思うが、これはすべてが悪いわけではない。例えば忍耐力がつくし、こんちくしょうと思うから先輩よりうまくなってやろうと思う(僕の場合はそうだった)。実際に入部した時は先輩の方が上手いし、一つ上の先輩はその上を立てるから、上の人というのを段々と尊敬してくる。頭でっかちの僕にはもってこいのしきたりだ。ただ悪い面もある。想像力が育ちにくい。上から習った事が基本的に正しいと思うから、あまり疑おうとしないというか疑えないから感性が育ちにくい。そして合奏なんかしても思った事を全員が口にできるわけではないから、一部を除いて意見しようという心が段々となくなってくる。その点コロンビア大学の雅楽コースの授業をみていると、学年関係なくみんなが思った事を言いあう。内容はどうであるにせよこれは素晴らしい事だ。

先日、朗詠の嘉辰という歌い物の曲をコロンビア大学のクラスで練習していた時の事で、これは一の句、二の句、三の句といってソロで歌うパートがあり、このソロの部分を「誰か歌いたい人?」と尋ねると、なんとまだ初めて数回しか授業に来ていない一回生の女の子が手を挙げるのです。僕の大学の母校では考えられません。遠慮や、恥ずかしいという心は日本人の気質でありこれは悪い事ではないと思うが、アメリカ社会にある積極性というのも悪いものではない。

表面だけを見ると上下関係や年功序列といった、例えばコンサートなんかで技術のあるものが出るのではなく年齢の高い者が出るというのは非効率な感じがしない事もない。だが技術的な事を含め、歳をとっているから出る味というもがあるのも事実だ。特に日本の伝統芸術にはそれが表れやすいと僕は思う。

僕は自分の生徒に指導する時は、笛鞘をきちっと体の前に置き、身の回りの稽古に使う道具などを整理してもらってから練習を始めます。何年か笛吹きを見ていると笛を吹かなくても、その人が笛を筒から取り出す仕草で実力が分かります。たぶん剣の道では、何かを切った切り口を見たらその人の剣の実力が分かると同じように。仕草だけ練習してもしょうがないのですが、そういった事をきちっとする事が音に表れてくると僕は思う。そして習う人に対して、謙虚でありながら疑いの目を持つ。これは以前にも述べましたが白紙で、色眼鏡をかけずに音に向かうという事だ。

結論として、雅楽を習得するにおいて日本文化の一つでもある上下関係や、表面上、非効率的な作法を学ぶ必要があるのかどうかは分かりませんが、日本人以外の人が雅楽を学ぶ時、ただオタマジャクシを追うだけではなく、その下には長い歴史があるという事を“体得”しようとすればそれは大いに雅楽の理解に役立つであろう。





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