“きたやま”の絵を、笛吹き柿谷貞洋の視点から
さくら見るとなんだか胸がざわつくよね
僕の約15年来の親友に"きたやま"という絵を書く男がいる。
プロフィール画像は彼の絵である。
数年前から、何枚か彼から絵をもらっており、久しぶりに彼の絵をみたくなり送ってもらったので、それを紹介したい。
僕は絵を書いたりする事もなければ、全くもって勉強などもしたことないから、この分野に関しては本当に門外漢である。もちろん色使いの事なんか全くわからないし、彼の絵の批評など、なんともおこがましい事ではあるが、あえて笛吹きの観点からしてみたい。僕と彼がお互いの分野で育つために。
さて、いきなり悪い事を書く。きたやま すまん、、、
まず両方の絵とも龍笛でいうところの“真”がない。ま、ぶっちゃけ彼の絵を描く力も、僕の龍笛のレベルと変わらない。まだ色、音の“真”を掴めてないという点で。
芸術というのはメッセージが大切である。なにを伝えるかが大切であって、芸がうまいとか、下手とか、きれいとか、きたないとかいうのは、どうでもいい事だと僕は思っている。
だから僕は龍笛をうまく吹こうなんて全く思ってないし、誰に勝つとか負けるとかという感情も今はなくなった。学生の時はそういう気持ちがかなり強かったが、、、
とにかく僕の場合は、音の中に、柿谷貞洋という人間を“表現する”ということに対し意識を集中している。
きたやまの“いい所”はいい絵を描こうとしていないことである。僕はこの絵の技術的なことは分からないが、彼は少なくとも自分の心の素直な色を出していると僕は感じる。何度も述べるが、色づかいが良いとか悪いとか、構図がどうだこうだは分からない。ただ彼は迷いながらも、真っ直ぐに絵を描こうとしていると感じる。僕はだから彼の絵と人間が好きである。もちろんこれは勝手な僕の見解である。
陰陽の観点から見ると、上の絵は陰、下は陽である。当たり前のことではあるが、それぞれの絵の中にも陰陽がある。
東京タワーの絵は未来性を僕は感じる。破滅のイメージかな、、、、桜の絵は、以前には彼の絵にはみられなかった、彼の“幸福”というものを少し感じる。
“真”の話に戻るが、迷いがあろうが、あるまいがそんなことは今の僕らには関係がない。なぜならその迷いを“表現”すればいいからである。しかし、色においても、音においても“真”がぼければぼけるほど、思いや、メッセージが伝わりにくいのである。
例えば、龍笛の練習においては、“真”の音を出すには、「龍笛の吹き方」においてなんども書いているが、自分の体に集中し、注意力を働かせ、楽器を体とし、振動を感じながら、その管においての一番のポイントを体で掴むことである。結果、真の音が表れ、その奏者の本当の意味での癖ではない“個性“というものが現れ、多くの人にメッセージが伝わるのである。
絵画においての、又、きたやまの絵においての“真”というのはなんだろう?
自分という人間を表現するのはしっかりとした土台、基本があっての事だというのは周知の事であるし、その基本的な絵画の勉強というものが大切な事は彼もわかっているだろうと思う。
しかし彼にはもう少し、自分と世界(自然)においての関係を見出してもらいたいと思いお礼も兼ねてこの本を送った。
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きたやま、勝手なこと色々書いてすまん、渡米前に一度飲めたらいいな。渡米はおそらく今の予定やと9月7日かな。
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