2009-04-09

意識的な呼吸の力




良い文章を書こうと思うと、どうも手が止まってしまう。できるだけ作った文章にならないよう素直に書きたいと思う。

何度も、自分がこれまで色々な方に習った呼吸法について書きたい思ったが、書いては消去の繰り返しであった、今日こそは書ききりたいと思う。

僕は今、日課として朝晩15分くらいづつ座禅を組む。といっても僕のは正座である。結跏趺坐でもいいのだが、正座である。

やり方は簡単であって、正坐をして手のひらを上にむける。それから、自分の丹田よりさらに後ろ斜め下辺りとみぞおちの奥とを気で結ぶ。それができると、宇宙の高い所と地球の真ん中を自分の心(丹田)を中心として一本のラインをつくる。これで形は完成である。

次に呼吸である。まず舌を前歯の付け根あたりに付け、口から全部出し切り、肛門を締める。これが意外とでできないが、へそと肛門がしまってない人間は心にしまりがないらしい。息はストローで出すように、細く密度のある、口笛を吹くようなイメージで長い息がよい。気持ちいいいという感覚もわすれずに。出しきった後、次に息は決して意識して吸わない。肛門を緩めると同時に、天の高い所から、鼻を通り勝手に丹田の奥深い所に、空気が送られてくるイメージである。この感覚は最初は難しく感じるが、ただの訓練であって、誰でも意識して練習すればできると思う。腹式呼吸でいいのだが、必ず横隔膜も広げる意識をした方が、体全体に気が送られる感じを掴めるはずである。

大事なことは、自分が自然になったイメージをすることである。極端にナルシシストになってみるのであある。

「あなたは天と地につながり、宇宙の一部なのです」とか言う人がいると、少しひいてしまうのが普通だと思うが、長く続けるとほんとうにそんな気分になってくる。

僕はこれを約4か月続けると、少し自分に変化が出てきたのを感じることができるようになってきた。今まで気になっていた些細なことなどが気にならなくなってきたのである。気のせいかなとも思ったのですが、あきらかに自分の日々の精神状態が違うのです。

それと物事に対する判断力というか、直観力が少しついてきたような気がする。だいたい何かを決める時、例えばAかBを選ばなければならないとします。冷静に、また客観的にみると状況的にAを選ばなけれならないとします。しかし欲のある自分はBを選択したい、どうしても今はBにしたい。こういうことは誰でもあると思います。こんな時自然とAを選択できる。座禅をするこによりこんな力がついてくる。もちろん僕もまだ完全にこの状態に至っているわけではないが。

たぶん人間の人生において、ぐっと苦しいことを我慢しなければならない時期と、追い風に乗らなければならない時期とがあって、それを自然と感じることができ、正しい選択ができる人間が、人生の波にうまく乗れてるんだと思う。

話が少しそれるが、先日知人が自殺した。このことを書こうかどうしようか迷ったが、あえてこの文章に照らし合わせて考えてみたい。詳細はよく知らないし、知人といっても特別親交があったわけではない。しかしこの方は僕の、“笛を生活の中心にして生きていく”という生き方を応援してくれていた人のなかの一人である。

結論から述べると、人間はみな生まれ持ったそれぞれの特別の才能があると僕は信じるが、この方はそれを見つけることができなかったのだ。この世で生きる表現方法を見つけきれなかったのである。また回りの人間もそれを見つけてあげることができなかったのだ。もちろんこれは僕の一方的な見方ではあるが。

人間が生きるということは、僕は、自分を表現をしていくことだと思う。自分の徳分を生かしていくのである。少し感情的な文章になるが、僕はこの事を強く主張したい。表現である。だから、お互いがお互いの深い部分で会話をしまければならないし、人の感情に敏感にならなければならない。

人という漢字は、線が支えあう。これは助け合うことだと言われるが、僕はお互いがお互いの才能、天職を発掘しあうことでもあると思う。

神がいると仮定しよう。そして神が人それぞれに才能を与えたとしょう。しかしそれを見つけるのは、自分である。がんばろうとするから時々人が手助けをしてくれる。我々には大きかろうが小さかろうが、目標と夢が必要なのである。 それを達成した時の感動が必要なのである。

僕は音楽家でもなければ、芸術家でもない。宗教家の一笛吹きである。人の魂を扱うのが仕事であるとなんとなく思っている。漠然とである。しかし人の魂を音で救いたいと本気で思っている。もちろんこのことをまだ深く理解していないし、宗教家としても半人前の半分である。

話をもとに戻す。この呼吸法が全ての人において絶対的であるとは思わないが、自分がこの世において何をしなければならないか、何をしたいかが、長く続けることによって見えてくるのではないかと思う。

自分は、自分で好き勝手に生きているのではなく、生かされている。長い歴史のなかの一部であり、線の中の決して欠けてはならない点であるということを深く自覚できる方法の一つであることは間違いない。

僕は、自分がこの線の中の点であり、これを自分で決して切ってはならないものだと思う。





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