龍笛を吹くということ

四月になり、渡米まで残すとこあと約4か月となり、本格的に始動し始めていかなければ。とおもいつついまいちな感じだ。


僕は今の師匠について今年で11年目である。最初に出会った時、耳ではなく脳が揺らされる音をこの人が吹いたときは、なんと表現してよいか、、、こんな音を出したいというよりただただ唖然とした、という記憶がある。


今までの僕はただうまくなりたい、師匠のような音を出したい、と思ってがむしゃらにやってきたが、3年前アメリカに行ってからだんだんこれを外に発信したいと思うようになってきた。というのは、だんだんと僕の音を認めてくれる人が増えてきたからということと自分に自信が出てきたからだ。


僕の名刺は、以前師匠に色紙を書いてもらったとき雅楽傳導師と肩書きをもらったので、それ以来その肩書きを使っている。

しかし僕が本当に興味があるのは、極めたいのは、雅楽というより、龍笛の“音”なのかもしれないと時々思う。

先日10年前の稽古中のノートを見てたら、「笛は鳴らすのではなくて勝手に鳴るんや」みたいなことが書いてある。最近その意味が少し、呼吸法に焦点を絞りながら練習することでわかってきた。10年越してやっとだ。

この“わかってくる”というのは、もちろん言葉の意味ではなく、なんというか体の下の方から生まれてくるような感じで、いったん掴むといくら練習しなくても自分から離れないものなのである。だから大事なことは腕立て伏せや、筋トレをしてできあがった技術ではないことは確かだ。


龍笛はいくら練習してもイメージが湧いてこないと決して上達しない。だから、音のイメージが湧いてくるような練習をしなければならない。

最近自分の生徒に指導するときは特にこれを思うし、このことを伝えたいと思う。でもイメージが湧いてくる練習とは具体的にどんなものか?? もちろん雅楽を稽古するうえで一般的に大事だと言われている唱歌(曲をまず歌って練習すること)や、多数の曲をこなしていくこととは全く関係がないという事はすこしずつ解ってはきている。


僕の練習方法は、とにかく力を抜くということ。しかし、例えば、口の力を抜こうとおもったら口の力を抜くために、ほかの場所に力が入ったりと、最初はそんなものであるが、それでも続けるとなんとなく体全体の力が抜けてくるのを感じる事ができる。言い換えると自然体に近づいてくるのだと思う。


だから雅楽を練習するということ、笛を吹くということは自然に近づいていくことなのではないか。ってかなり抽象的だが、、、


人間が本来持っている力というか、感性というかそんなものが自然に近づくということで生まれてくるのではないだろうか。 これはプラトンの“人間はそもそも学ぶということは、本来持っているものを想起することである”に近い考え方であるかもしれない。


なんか妄想じみた事を書いているが、言いたいことは、丹田に気を込め、いらない力を抜くということだと僕は理解している。息を入れようとせず、我を捨て、自分が風になったことを想像するのである。

これが龍笛を吹くということであり、このことが、実際の生活、心、体に大きく影響してくるような気がする。というよりも、影響してこないとそれは吹いていない。練習していないのだ。

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