投稿

ラベル(雅楽 龍笛)が付いた投稿を表示しています

シュリナガラ2日目

イメージ
シュリナガル二日目。 町を案内してもらい、いくつか庭園に連れて行ってもらいました。 どこを見ても驚きです。 お金を求めに来る人もすべてが僕にとって新鮮であり衝撃的でした。 100円でも差し上げたら喜ぶだろうなと思いながらも一銭も出しませんでした。明らかに僕達日本人とは、行い、ものの考え方、生活レベルが全然違うのだろうけど、僕はいつも同じ魂を持っている兄弟である事は常に意識し続けた。 どうあがいても現在の生活から抜け出せない人間がいるのは確かだ。それを“強い信仰”というもの支えているのかもしれないと考えたりした。 なんやら分かっている気になって書いているが、所詮上から目線なのはわかっているつもりだ。 明日はいよいよヒマラヤ山脈へ!!

電話での話

イメージ
昨晩久しぶりに、日本の相方と長電話をした。決まって内容は笛の話。 僕は今の師匠に18歳の時から習い始めて、今のように約一年近く習わなかったという時はない。だから今はひたすら道をはずさないように自分で音を探すしかない。 相方は今師匠宅で修行中だ。雅楽に関してはすべてにおいて僕より一枚上だから、そういう意味において僕は彼を信頼している。 昨日はどうやって自分だけで音を探していくかという話だった。一つは自分の感性を信じるという事。これはどういう意味かというと、自分で吹いてて少しでも“違う”と感じるとそれは違っているという事だ。だから少しバックして、しきり直さなければならない。 きちっとした道に乗ると音は自然に動き出す。自然な吹き方というのは無理が生じず、そして答えは針の一点にしかない。しかしその針を通す息と言うのは実に柔らかく強いものであり、所謂雨垂れが岩をも崩していくイメージだ。 柔らかい水が段々と岩をも突き通していくという事が、本来の“練習”をする意味だと僕は昨日捉えた。 答えは一つの場所にしかない。その大きな岩が水滴によって砕ける部分は針の先の面積一か所のみである。 それぐらい龍笛を極めていくという事は困難である。真っ暗闇の中を体の全細胞を働かし感じながら進まないといつまでたっても辿りつけない。 しかしその道に入る事ができそうな瞬間がある。例えそれが勘違いであったとしても、それは“気付いていっている”という事であり、その勘違いに気付いた時が上達している時だ。その感情というのを僕は大切にしている。その発見と勘違いの感覚を持ちながら進んでいくところに笛と共に生きてゆくおもしろみがある。

龍笛の事~責と和の出し方

Twitter では少し書ききれなかったのでブログにしました。 今回は龍笛吹かない人には全く関係ない話です。ですので最初に御断りさせてもらいます。。。。 ここ二年程龍笛の“責(高音)”の音と“和(低音)”の音の出し方で気になっていた事があったのですが、それが今日少し分かったので書きたいと思います。 以前、相方から「和の音は責の口で吹くんや」と言われた事があります。その時は実は僕、反対だろって思ってました。 師匠はいつもとにかく口の力を抜いて責の音を出せといいます。和の音と言うのは口の力を抜いて出す事が出来ますが、責めになるとどうしても口に力が入ります。僕も人に教える時は必ず和の口、所謂口の力を抜いた状態で“責”を出すように教えます。 しかしこれは少し実は違ったのです。ただ口の力を抜いて“責”であれ“和”であれ音を出そうとすると音がどうしてもぼやける。簡単に言うと、口の力を抜いてぎりぎりまで口を閉め“責”を出す。そしてその口で“和”を出す。こうすると音の密度が高くなるから、竹に対し数倍の振動数を加えることができる。結果音も伸びるし、煤竹の音がでてくる。 こういう風に意識して今師匠の音を想像してみると、あの人の口はかなり力は抜けているがしっかりと閉まっている。もちろん師匠はそんな事は口にした事がないが、相方は見抜いていた。 遅ればせながら僕は今日それを体で持って理解した。 しかし実はこれは誰にも言うなと相方から言われていた事だが、、書いてしまった。。

龍笛の稽古~力を抜く難しさ~ at Brooklyn

NYはほんまに寒い一日でした。大学生の時に12月にモスクワに行った時を思い出しました。実家四万十市では考えられない、、、 今日はブルックリンにYさんの龍笛のお稽古に行って来ました。彼女は龍笛を僕の師匠から買っていて、僕の笛と兄弟笛です。すごく重厚な且つ柔らかく繊細な音がでる笛です。たぶん僕のよりいいと思います、、、 日ごろはお仕事の関係などで時間が取れないため今日は集中練習とうことで午前中から特訓のはずでしたが始めようとすると、なんやかんやの会話がお互いに始まり、なかなか笛の稽古に届かず結局午前中はほぼ会話で終了。。 さて昼からは本腰入れてです。 僕が指導させて頂くとき一番大切にしている事はとにかく“ほー”の口のイメージで音を一つ一つ出す練習です。指も動かさないし唱歌もしません。特に“中の和”の指を中心に下から柔らかく音を入れていき、音がでてくると段々と下腹(丹田よりも少し斜め下の辺り)からその音を音で押して行く練習です。押して行くというよりは振動を“気”でもって加えていくようなイメージです。決して“息で音を出そう”としない事です。多くの笛吹きが音を息で出そうとするから疲れるし、時には肺活量がどうだこうだと言ったりするから本来の龍笛を吹く楽しさを逃しています。そして息で作った音は自然ではないから人にCOREが伝わりません。 僕の知ってる多くの方々が必ず指、肩や口などに力が入り長く練習してるとどこかが痛くなり、そして力を抜こうと思っても力は抜けないし、時には力を抜かなければならないという事すら知りません。しかしYさんは今日はその事にはっきりと力が入っているというのを自分で認識できたようなのでまずはスタートラインに立てたと思います。音を出そうとすから力が入るのであって、音がでるとかでないとかはどうでもいい事なんです。なぜなら、師匠の言葉を引用すると笛の原点は「朽ちた竹に風があたって音が成った。だから笛吹きは風にならなければならない。」 風はもちろん音を出そうと思って竹にあたってるわけではなくたまたま音が鳴った。だから自分が風になったイメージをもちただただ竹に風を送り、結果音が鳴る。 もちろんこれは精神世界のような話であって究極的な境地ではありますが、僕はそこを目指しているしそこを伝えたいと思っています。だからそう思い続けて稽古をすると段々と気持ち...

今日の龍笛稽古

イメージ
さて学校もコンサートも終わり一段落といったところですが、僕の頭の中は次のコンサートに向けて龍笛の音を練る事に必死です。まだ日程は未定ですが。 今回のコンサートのビデオを自分で見ながら、もう一度反省してみました。twitterにも書きましたが、①息を入れてからの押しが弱いからいまいち音に伸びがない。②ブレスの間が短くなっている。特に最後の曲になると、呼吸が疲れから少し浅くなってきてるからそのせいだと思う。③説明の英語の発音が悪い。。。 さてこれからの練習としてはもう一度基本に立ち返りロングトーンからです。一つの音を真っ直ぐ、ぶれる事なく伸ばす練習をし、それができたら今度は音を音で押していき、管に振動を加えて行く練習です。そして大切なのはまず笛を持たずに深い呼吸をする練習です。 龍笛の音は二つから成り立っているのではないかという事を以前に書きました。真ん中の絹の音、所謂真の部分、そしてそれを包む音。最近はこの真ん中の絹の部分にこだわって練習してます。そうすると、以前師匠が言ってた「自分の息筋がみえないとだめだ」という言葉の意味が少しづつ体を持って理解できるようになってきました。コンサートが終わってからです。。 少し話がそれますが、コンサートの前日「天空の城ラピュタ」をビデオで見ました。特に意味はなくただここの家にビデオがあったからです。映像の中で飛行船から離れたパズーとシータが龍の巣の中に小さな飛行機で入っていくシーンがあるのですが、その龍の巣の中を二人の飛行機が駆け抜けていくシーンが妙に僕の龍笛の管の中のイメージを一致して少し音に対する閃きを頂きました。駆け抜けていくスピードが速いという点が重要なのです。その二人の飛行機が僕のいう所の“真”であり“絹”の部分です。 音のイメージは常にアンテナさえ立てておけばどこからでも取り入れる事が出来ます。ただここまでいくと、龍笛バカとか、狂人扱いされるのでその辺は覚悟してください^^。 とにかく今までの10年分の師匠の言葉を書き留めたノートを見直して一からやり直しです。今回は舞台や装束にもこだわり、そしてこれからも色々と考えていきたいと思っていますが大切なのは何度も書いてますが“音”です。 小さめに前回のコンサートの写真をアップさせてもらいます。

龍笛ソロコンサート終了

イメージ
みなさまありがとうございました。 無事終了いたしました。 舞台については今回は最後の曲目に因んで火、水、風をビジュアル的に表現しました。赤のカーペット、僕の青の衣装、そして風は竹をもって表現したつもりです。 写真には映ってませんが、今回は後ろの壁に竹の影を写したかったので、両端からスポットライトで竹を照らしました。これは大成功で壁一面に大きな影ができました。 演奏に関してです。 さすがに最初は震えました。。吹きだしは重心が胃の辺りまで上がってどうしようもなかったのですが、少しづついつもの丹田の位置まで下げることができました。約50分間の演奏でしたが、集中力も途切れることなくできました。 ただなんとなくの自分の空気の感覚として、全体のソロコンサートとして、まだ何かもう一押し足りない気がしました。終わった時それがなんなのかがイマイチ分からなかったのですが、日本の師匠に電話をしてその事を伝えると、「音を入れてからの押しが弱いからや」と言われました。 要するに師匠に言わすとすべては“音”だという事です。そして音でもって勝負しないと意味がないという事です。 もっともっともっと音を練りこんでいかなければならない。 次へ向けて。

今日の龍笛稽古

今日は久しぶりに一日家で過ごしソロコンサートに向けてのプログラム作りと笛の練習をしてました。 吹いてて気づいた事を書きます。 今回のコンサートでも伎楽や、日本、アメリカの童謡などを演奏するのですが、童謡はまだしも、伎楽などの指が早い曲になればなるほど ”音の真” が外れやすくなるという事です。 だから必ず曲を吹く前には、一音をしっかりと出す練習をしなければなりません。この練習をほとんどの人が怠るから曲を吹いたときにも音が生きてこない。大事な練習は曲を吹く練習ではなく、音を作り出す練習であると僕は思います。そして指の早い曲は一つ一つ音の移り変わりを意識しながら、ゆっくりと吹く練習を初めにしなければならないという事。。音がでないから曲が吹けないのです。 とにかく丁寧な練習。 決して僕は物事に対して丁寧な人間ではないので、ここから学ばなければといつも思っていますがなかなかです。 そして以前にもこの事には少し触れましたが、音というのは、僕の今現在の理解で述べると二つから成り立っています。一つは真、所謂 “絹” の部分であって、もうひとつはそれを囲む音。ほとんどの笛吹きの音には真がなく、それを囲む音だけ出している。だから人に、 “ 龍笛の音 ” が伝わらない。 僕の今のコンサートに向けての稽古はその絹を練りこんでいく練習です。強く、柔らかく、極限まで細く繊細に、且つ滑らかに。絶対に切れない絹をイメージして。 龍笛というのはこの “ 絹の振動 ” なのです。 はっきりいってこの稽古はかなりしんどい事です。なかなかイメージに近づきません。 言いたい事は、龍笛は音全体を管に対して振動させるというイメージよりも、真ん中の絹を振動させるイメージです。 さて、本番というのは実力の半分出せたらいいと僕は大学の時から思っていましたが、自分の本番への追い込みのかけ方によっては、本番にしか出せない音が有るという事に最近気づいてきました。二度程経験した事があります。おそらく極限の緊張状態を保とうとするからだと思います。 新しい自分の音に本番で出会いたい。

龍笛コンサートに向けての準備

イメージ
今日は、こちらNYではチラシはA4ではなくポストカードの大きさでないと置いてくれないという事で、印刷をし直しました。 なんとか知人に手伝ってもらい完成です。 さてそれはさておき、前々回に僕の落書きを紹介しました。僕のすばらしい所はあんな幼稚園児のお絵かきを恥ずかしがらずに皆さまにお見せする所です、、、、少し意味不明な文章です。。 今日はそのお絵かきを持って、とある知り合いのギャラリーのオーナーに見せに行きました。これもまた身の程しらずです。。 僕;「今度コンサートするんですけど、この絵を下に敷きたいのです。」 オーナー;「いいじゃない!!あんたが描いたの??」 僕;「はい!!」 びっくりです。。僕の人生の中で初めて絵を描いて褒められた。。 まあお愛嬌がほんとんどだと思いますけど・・・もちろん本人はくそ真面目に本気で描いてます。 とにかく、オーナー曰く迷ったらやる。描いてみた駄目だったらやめればいいじゃない。っという事なので僕の約5×4メートル程のコットン生地に絵を描くというビッグプロジェクトが開始しそうです。画材屋さんから、描き方まで教えてもらい、筆まで貸してくれました。 どうせ考えたってうまい絵なんか描けないんだから、勢いでやってやろう。 帰ってこの事ホストマザーに話したら失笑されました。 何度も言いますが、本人はくそまじめに本気で取り組もうと思ってます。

絵を描いてみた 龍笛コンサートに向けて

イメージ
なんとなく気持ちが不安定だ。 原因を考えるとやはり、行きつく所は龍笛です。思うように音がでない。音の真がぼやける。日本だったら師匠の所に行けるが、ここからは遠い。 考えてみると今の師匠に出合い、今ままで24歳の時の僕の挫折の時期以外で、こんなに長い期間師匠の音を聞かなかった時はない。しかし泣きごとは言ってられない、来月にはコンサートが控えている。 僕には師匠の音を伝える使命がある。 学校から帰って今はひたすらロングトーン。曲はあえて吹かないようにしている。なぜなら僕がここで生き延びる事が出来る要素は“音”だからである。徹底的に一つの音にこだわり、その点を線にしたいと思っている。 今回のコンサートもすべての音を生かすというのが僕のテーマである。コンサート中、曲の中で一音でも音が真から外れると、お客さんと僕と、僕に繋がっている二つの点、合計4つの点の糸が切れるからである。結果、僕の伝えたい世界にひびが入る。 プロと素人の違いはここだと僕は思っている。 ここ3,4日ステージに敷く柄を考えていて、今日は授業以外の時間ずっとRaviShankarのShantiMantra を聞きながら過ごした。 なんともいい “メロディー” である。実に広く、大きく、温かく、丸い曲だと思う。 ますますインドに行きたくなってきた、、 話があちこち飛ぶが僕は小学生、中学生の時は音楽と絵画の授業が一番嫌いだった し 苦手だった。 ここ数日、自分が何枚か笛を吹きながら色鉛筆で小学生のお絵かきみたいな事 をしているのでなんとも自分に笑ってくる。 そして今日できた絵がこれである。 笛を吹いていたら急に書きたくなったので思うがままにぐしゃぐしゃ描いてみたら こんなになった。 上は天からの”気”、左右は地の”気”、下は人間の”気”。中心は僕の”気”。 すべてが中心に向かっているが、黄色の部分は止まっている。止まっているといっても、 ヘリコプターが、空中でホバーリングしている状態の感じかな。 止まってるけど動いてる。川でいうと、途中に岩がありその裏側の部分。 流れが止まってる部分。 中心の赤黒い部分からは今度はそれぞれの 天、地、人間の側面を沿って外に発信して行っている。 鉛筆の向きが逆になってるのが気づいていただけるだろうか。 先に述べた4つの天...

僕の雅楽、龍笛の中心となるもの ~舞台~ 考え中・・・

イメージ
来月のマンハッタンでのコンサートに向けてどういった舞台を作ろうかと考えています。 そのため、もう一度、自分は一体何を伝えたいのかを原点に立ち返って考えてみました。というよりまだ今も書きながら考えています。 コンサートの中心に持ってくる曲は“火、水、風”という師匠が作った四万十川に焦点を合わせた曲です。 舞台の中に、音と共にこの火、水、風という世界(空間)を視覚的に作りだしたいのです。 今回の僕の意識のテーマは「繋がり(円)、温かみ、厳しさ」という言葉に、考えているうちに絞られてきました。もちろんこの考え方の原点は“自然”です。 それとともに表現したいのは、過去、現在、未来、縦、横、高さ、そして、フォーカスポイントは“今”です。 「火、水、風というのを、繋がりと温かみと厳しさを持って表現する」といった感じでしょうか。そして今につながる時間的、空間的なもの。 さて何を考えているかというと、僕は立って演奏するのですが、その下に敷く敷物の柄について考えているのです。 今回僕が使用する衣装は水(川の流れ)を表したものです。渡米前、知人に仕立てて頂きました。 最初は単に赤の毛氈を火を表すために敷こうと思ってたんですけど、考えてるうちにこれではいまいち面白みに欠けると思い、それでは自分で何か自分の内面を表す絵を書いてやろうと思いついたわけです。 というのは先週Readingの授業で カンディンスキー に関する記事がでてきて、大学の時に行ったエルミタージュ美術館で彼の作品に感銘を受けた事を思い出したからです。 僕にもあんな感じの絵が描けるんじゃないか?思い上がりもいいとこです。つくづく単純な男です。柿谷という男は。 さてそれはさておき、、 風はなんとなく竹かなと思い、実家ならその辺に乱立してる竹だが、こちらで何人かに尋ねてみるとない事が判明、今の所の情報では。 チャイナタウンに行けば何か情報が手に入るかも。週末探しに出かけようと思っています。 もしあったら、竹を組むか、それとも舞台に乱雑させるかは未定。 下の絵は衝動的に書いた、敷物の柄。はい、残念ながら全くセンスなしです、、、、このブログで僕の絵のセンスのなさを見せる必要があるのだろうか、、、??? まぁいいや。 ほんとに何がなんだかさっぱり分...

七五三コンサート~雅楽

イメージ
 昨日は Japansociety という場所で、NY在住の方々(7,5,3歳)のために行われた 七五三 の行事があり、天理NY雅楽会の一員として演奏に参加してきました。 セレモニーの中の付楽なので、コンサートという程ではないのですが。。 この雅楽会の練習は月三回程度で、僕もこちらに来てからは毎回参加させてもらってます。 みんなすごく楽しんでて、乾いたスポンジが水が吸い込むように上達してます。 それぞれの感性が最大限に発揮されれば、もっともっといい作品ができるんだろうと思います。 ここの方はみな独特な感性を持っているので。

僕にしかできない事。 龍笛の何を伝える?

NYには“天理NY雅楽会”というNYで唯一の雅楽団体があります。月に三回程練習しているので、僕もそのお手伝いに行って来ました。 その中にMさんというアメリカ人の笙吹きの方がいて信じられないくらい熱心なんです。練習はすべてICレコーダーで録音しているし、先日は舞を少し指導したのですがビデオでずっと撮っている、、少しこちらが緊張します。。。 そして日本人の宮内庁楽師の名前も良く知っているし、今度誰々がNYで雅楽を演奏するとかよく知ってます。もちろん僕より。 いったい何がそこまで彼を雅楽の虜にさせるのか??ホストマザーのアメリカ人に聞いても“I don't know.” 一緒に演奏してても手移りだって最初は少し早いものの、少し注意するとすぐよくなります。 雅楽は間違いなくこの国に伝わります。 そしてコロンビア大学でも感じた事ですけど曲を吹き終わった後、色々と自分の感じた事、思った事をよく話すし、よく質問してくる。もちろん僕は、Please please speak slowly!!!!!! 日本での稽古においてはあまりない光景です。というのは日本では一方的に上手い人、若しくは年配の人が物申し、それに若い人や初心者が準ずるのが普通のスタイルであって、何と言うか“感じる”という感性を育てる稽古ではないように僕は思います。すべての雅楽団体を見たわけではないので一概には言えませんが。 みんなが自分達の演奏について話すというのは内容がどうであれすごくいい事です。 ただそのMさん、コロンビア大学の学生さん達の話を聞いていると、雅楽をどうしても頭で理解しようとしているのです。例えばMさんの場合、演奏中他の楽器の音も良く聞いていて、それ自体はすごくいい事なのですが、笛のどの指の時に笙はどう合わすのか?篳篥のどの指の時に笙はどの指なんだ?みたいな質問が多いのです。決まって僕は「Just keep your rhythm.」 すごく難しいのですが、雅楽は合わす練習をするのではなく、合ってくる練習をするのです。音を出す練習をするのではなく、音が出てくる練習をするのです。 そしてもう一つはもっともっと音色にこだわらなければならないのです。音が一音の中でしっかりと伸びきるから、拍子が生まれてくるのです。“音”、一つの音が大切なんで、その中にリズム...

説明難し。in English

毎週木曜日は、僕は一助手としてコロンビア大学に雅楽の指導で行きます。 雅楽というのは、実際はすごく洗練されていて理論的な伝統芸術です。ってなんか学者さんみたいな事言ってますが、、、僕は龍笛というのを、常に映像として、イメージとして捉えようとしているので、実際に言葉で、吹き方や音質についての事などを伝えるのはすごく難しいです。 今日は秋の雅楽のセメスターが始まって二回目で、生徒さん達、特に新しい方達は譜面のカタカナを覚える事から始まりますが、ほとんどの方達は日本語を少しかじってたり、日本文化に興味がある方達が受講しているのでそこはなんなくクリアできます。 ただ何が問題かって僕がそれらを英語で説明しなければならない点です。僕自身日常生活で困る事は少なくなってきましたが、龍笛における細かな指使いや、持ち方、息の入れ方になるとすごく難しく、自分でも自分の英語がわからなくなってきて、、もちろん聞いている生徒さんの顔は^???^って顔です、、、、 本当に伝えなければならない大切な事は、雅楽に対する考え方や東洋における重要な思想であったりするのですが、その辺はもう少し、いえかなり時間がかかりそうです。 色々な局面に備え、今日は昼からホストマザーに尋ねてノートに記してたのですが、いざとなるとなかなか思うようにはいきません、、^^ でもすごく勉強になるので楽しい時間です!! 来週月曜からやっと学校が始まります。5時30分起きです。 僕の特技は早起きですので問題なし、、のはずです・・・^。^

コロンビア大学へ

イメージ
コロンビア大学には雅楽のコースがあり、僕のhostfamilyの奥さんが主任講師として雅楽を指導しています。 今日はそのお手伝いとして行って来ました。三年前に来た時にも少しお手伝いをさせて頂き、今回その時の生徒さんもまだいたので、ほんと久しぶりの再会といったところでした。 なんとも不思議な光景です。白人からアジア系から様々な人が雅楽器を触っているのですから。足を組んで演奏しているし、姿勢なんかあったもんではありません。もちろんそういう文化ですから、それがいい悪いではなくて。。 僕が今日感じたのは、リズムというのが彼らにとって一番難しいのではないかと思うのです。唱歌を音程通り歌ったり、指を覚えていくのは練習次第でなんとかなると思うのですが、雅楽のリズムというのはとてつもなく取り辛い、、、同じ文化で同じ環境で育った者どおしでもなかなかリズムが合いにくいので。。 だからみんなで呼吸を合わせるために座禅を勉強すれば合ってくるという、そう簡単なものでもないと思いますが。 海外において雅楽を伝える時一番難しい点はこのリズムですね、間違いなく。 呼吸というテーマと、この雅楽のリズム。僕にとって、この国でこの国の人達に指導する時の大きなテーマの一つですね。 明日はテストです。寝坊しないようにしなければ^^

龍笛を選ぶ~自分の気持ち~

イメージ
秋のにおいがしてきましたね^/^ 22、23日とは師匠宅へ行ってきて、今月も新しい発見がいくつかありました。 渡米まで残すところ後二週間程となり、27日の僕の四万十市での初のソロコンサートまでももう日が無くなってきました。お陰様で昨日満席になりました。 本気で臨んでいきたいところです。 龍笛に関しては先月替えて、僕としては大分馴染んできたところですが、何人かの生徒さん達には、前の方がいいとか、音が軽いとか、龍笛の音がしないとか、、、僕の薄い?ガラスの心はバリバリと割られました、、(泣) もう渡米まで二週間なのに、、ここにきて、、 僕が二十歳過ぎくらいから教えてる方々なので僕の成長をよく知っていて、又僕をこれまで支えてきてくれた方々です。 しかしながら、龍笛を選択しなければならない際に対しての僕が思う大切なことは、≪僕自身がどんな音を出したいか、何をどう表現したいか≫という事を基準にしなければならないという事であります。もちろん聞いて下さる方がいて笛吹き柿谷が存在し、成長させて頂いているというのもすごく重要な点であります。 自分の癖ではない、“本来”の個性と“本来の竹の音”を表現するという点において龍笛を選ばなければなりません。“本来”という言葉はすごく難しい概念ではあります、、、というよりも“ここ”を求めているのですから。 僕の自分の笛に対する感覚としては、今の笛の方が吹いてる時、笛の真を感じる事ができ、自分のイメージを以前よりは自由に表現することができます。これは僕の目指す“本来”の音というものに近づいているのかという事について、はっきり言って自信があります。 僕は、基本的に自分の音の状態が変化する、若しくは他の人の自分の音に対する反応が変わるというのはいい事だと思っています。それが良かろうが悪かろうが。なぜなら前進しているから変化するのです。しかも今回は自分の笛に対する感覚がすごく良い。 きれいな音だけではメッセージは伝わりません。音は蒸留水では駄目で、色々な要素が必要なのです。今回僕の音が受けいられなかった原因の一つとして、今の新管は前の笛よりも透明度が高いのです。だから、音の中に繊維が詰まっていなかったのです。これでは聞いてる人の想像力を焚き立てることはできません。これは科学的に捉えると、ただ単に口の力が完全に抜けていなかったから、振動数が弱かった。僕の技...

大きく気づきました 力を抜くという事とは

イメージ
 最近は“呼吸”や“気”に関する本を時々読んでいます。なぜなら、龍笛を吹くという事は、大きくこの事に関わっているという事が体の底から分かってきて、できるだけ早く自分の“龍笛における呼吸法”というものを確立したいと思っているからです。もちろん焦って為せるものではなく、何年も何十年も、もしや死ぬまでかかるかもしれないという事は承知の上での思いであります。 昨日、今日で読んだ本: 氣の呼吸法―全身に酸素を送り治癒力を高める (幻冬舎文庫) Yogaではじめる瞑想入門 僕は、これらの本で自分の呼吸法が少し間違っている方向に進んでいるという事に気付かされました。と申すのは、呼吸法というのは、誰に言わせても基本スタイルは、「吐く息を長く、そして自然に息が体に入ってくる」というものであると思うのですが、僕はあまりにもこれを故意的にやり過ぎていたのではないかと感じるのです。 僕の龍笛の生徒さんにも、この呼吸法を教えたりするのですが、ほとんどの人が息苦しいと言ってあまり効果がないようでした。僕の場合も最初は息苦しい感じだったんですが、長い間続ける内にそれは無くなってはきたものの、まだ自分では何か少し違うという感じがずっと抜けきれなかったんです。 それで今日これらの本を読んで気づいた事は、“気持ちよく”行うという事です。今まで僕が色々な方々に習った中でも、この事は何度も耳に入っていたにも関わらずなぜか、この事だけが僕には抜けており、そして自分の生徒さんにもこの事を伝えきれてなかったんです。今日座禅を組んでて、ただ気持ち良く、呼吸が浅かろうが深かろうが自分の呼吸を見つめて、“丁寧に”呼吸をしてみると段々深くなっていく感じが少し掴めたのです。意識的にではなく自然に。そして何より“気持ちいい”。 僕が龍笛のクラスで指導する時、やかましく言うのは「とにかく体全ての力を抜く」というものですが、これも皆さんから良く言われるのは「肩の力を抜こうとすると腕に力が入る、指の力を抜こうとすると口に力が入る……。」どこかの力を抜こうとすると、どこかに力が入る、などなど、、、 そこで、これは僕の明らかな指導力不足からくるものなのですが、実は力を抜くという事は“気持ち”であって体に意識をするということではないということだったんです。気持ちをリラックスすると、自然に体の力が抜けてくるのです。というよりもその順番...

龍笛の吹き方~➆

イメージ
僕は今、いつまでこの“龍笛の吹き方”を書き続けようかと考えていますが、とりあえずは、僕の上達が止まるまでは書きたいと思っています。しかしある一定の所まで来たら書籍にしたいとも考えています。 さて今月は8年ぶりくらいになると思いますが、笛を替えました。左が以前の笛で、右側が新しい笛ですが、右側は見ての通り、以前のに比べ煤のかかり具合もあまりよくなく、値段も半額以下です。左が樺巻きに対し、右側は籐巻きです。 しかしながら良く鳴ります。まだ僕自信が笛に対し馴染んでいないものの、振動しやすい構造であるというか、軽い息で簡単に鳴ってくれます。 前々回にも書きましたが、良い笛というのは新管であっても、すぐに鳴る笛です。龍笛という楽器は、決して頭に鉢巻きをして吹く楽器でもなければ、汗をだらだら流して吹くものでもありません。もちろんこの季節は出ますが、、、。 さらっと、軽く、柔らかく、又“鋭く”吹く楽器です。 今日ビザが正式におりたという書類が届き、NYへの出発も9月7日に正式決定し、ある意味において八月は笛吹き柿谷としての、現在の完成形を作りたいと思っています。決してこれは、笛を追求するということにおいて守りに入るのではなく、もう一度基本に返り、今まで師匠から習った技術を自分のものにし“理解”をしていくということです。 前置きが長くなりました。 さて“龍笛の吹き方”の本題に入りますが、今回は二つの事を述べます。一つは【楽人としての立ち振る舞い】について、もう一つは【自分の音を出す】ということについてです。 昔、師匠に言われたことの一つに、「楽人は楽人としての立ち振る舞いがある。日頃の生活に中においても同じや。」というのがあります。 なぜこの言葉を思い出したのかというと、今月僕が師匠宅で練習していた時のことです。僕の相方は内弟子のような形で師匠宅で修行をしておりますが、その日はおそらく何かと忙しかったのでしょう。僕が練習している側を、足をバタバタさし、何か用事をこなしておりました。いつもは僕は彼を兄弟子のように慕い、笛の技術も僕より上なので色々彼から享受しておりましたが、何かその時は直観的に残念な事に、彼の“行(ぎょう)というものが進んでいないな”と感じました。通いの弟子がかなり偉そうな事...

先入観なしに視るという事~龍笛を選ぶ際の笛の良し悪しの点から考える

イメージ
今晩からは師匠宅へ行きますが、今月は大阪でビザの取得も兼ねていくので4日間程の滞在となります。 今月は僕にとって、とてもすごくワクワクな月です。一昨日師匠から電話があって、僕の新しい龍笛が師匠宅に届いたの事で、数年ぶりに笛をチェンジします!!アメリカでの予備に購入したものでもあるのですが。 向こうでの不測の事態に備えて。。。 さて、ここで今回は雅楽を勉強するうえにおいて、先入観なしに事を視ていくという心の技術を、龍笛を選ぶ際の笛の良し悪しの点から考えてみたいと思います。 まず、この笛の良し悪しというのは、値段でもなければ、名のある職人が作ったということも全く関係ありません。簡単に言うと持った瞬間いい音が出て、いかに自分に合っているかが問題です。もちろん、どんな笛にも瞬時に自分を合わせるという技術を持つことが一番大切な事ではあるのですが。 雅楽の世界では、特に新管(作りたての楽器)において、「この笛は今は音が出ないけど、息を入れるにつれ段々良くなってくる」などの会話をよく耳にします。しかし僕の師匠は、最初の段階で音が出る出ないで笛を判断します。もちろん、正しい息の入れ方で息を入れ、年限とともに音色が変わってくるというのはいうまでもありませんが。そして師匠の選ぶ笛、というよりも作らせている笛は、ほとんどが細手で、軽い息で鳴る笛です。軽い息で鳴るから、力を入れる必要もなく楽に自然に音を出すことができます。 特に若い世代は息をつけるために、管、又は歌口の太い笛を吹くように勧められる事がありますが、これも師匠の理論に合わせて考えてみると全くもっておかしな話であります。そもそも龍笛は肺活量や、息の力をつけて吹くということには無縁の楽器でありますから。しかし雅楽の世界には、この息の力をつけるという伝統というか何と申しますか、そのような考え方が根強く残っています。“正しい音”のイメージをして練習すると、結果的に息の力はついてきますが、あくまでもこれは結果であり、そんな事はどうでもいいのです。大切な事は遠音をさす音です。 故に楽器というのは、まず軽い息で簡単に“鳴る”というのが、第一の楽器を選ぶ基準ではないのではないかと僕は思うのです。がんばって鳴らさないと音が出ない笛ではなく、自然に軽く鳴ってくれ...

龍笛の吹き方~⑥

イメージ
昨日まで奈良の方へ行ってきました。 27日はTOEFLを京都外大で受けてきました。あいかわらずさっぱりです、、、というような呑気な事言ってられないのですが。。 渡米まで残すところ約2か月となり、笛においてはもう一段上に上がっておきたいところですが、そう思うようにはいきません。しかし毎月確実に自分の進歩を掴んでいます。 僕はこのタイトルのように、これまで“龍笛の吹き方”と題した5つの文章を、“吹き方”と言いきって書いてきましたが、自分としては、まだ完全に笛というものを掴んでいるわけではないので、このような断定した書き方は良くないかもしれません。しかし僕は“吹き方”と題し、師匠から習った事を自信を持って書ける大きな理由あります。 それは師匠が“作らない音、自然に出てくる音”というのを常に考え方の底辺においており、しかもそれをこの人は求めて作り出した、自分で編み出した、というよりも自然な生き方をすることにより、勝手に生れたきたというような具合で体得しているからです。龍笛と“人間”が力強く密接しているという点が、僕が自信を持ってこのように“龍笛の吹き方”と題して師匠の理論を述べることができる所以です。芸術というのは人間の感性と共に育まれたきたものですから。 さて本題です。 今回僕が学んで、笛吹きの方にお伝えしたいのは、“注意力”です。前回の龍笛の吹き方においても、一つの事に意識を集中させて付箋を使い練習するということが、非常に重要であるという事は書きましたが、今回はもう一段高いレベルの話です。 師匠は、自分が笛を吹いている時、自分の息(風)を体で感じるとることができ、息筋が見えなければ駄目で、笛の中に息が何処を通ると、どんな音が出るのかを自分で体得し、“理解”することが必要であると言います。 ですから、どんな笛を吹いても、すぐにその笛の真を捉え、笛が自分に合う合わないではなく、自分が笛に合わせ、その笛の最大限の音を出さなければならないと言います。笛は生き物ですから、機嫌損ねないように。。。。と言いつつ「この笛あかんわ、、、」と言って放ったりしてますけど。。 三日間毎晩通ったのですが、このことを初日に言われ一晩考えこねました。 最近僕が毎日の座禅で意識していることは、息を吐き出す時に自分の息の振動を感じるということです。これは意識を自分の体の中の細部に...

大きなな効能??

先週来られたMu^san、昨晩篳篥吹きに来ました。 毎日、僕の進める 呼吸法 を行うという約束で、指導しますということでしたが、どうやら毎日行ったようです。 僕:「何か変化ありました?」 Mu^san:「便通がよくなりました!!??」 ??? まぁいいでしょう。ぼくの雅楽観は雅楽をする事で、生活に影響を与える、また健康になるということですから。花粉症の人が雅楽の鼻呼吸を行うことにより、鼻の通りが良くなったというのはよくあることですが、便通が良くなった人ははじめてです。 しかし、この呼吸法は肛門を意識することにより、腎が鍛えられるそうなので、そういうこともありえるかもしれません、医学的なことはわかりません。 僕「他には何かありました?」 Mu^san「なんか、膀胱のあたりというか足の付け根のあたりに筋肉がついたような…」 これは大正解なのです!!丹田(詳しく言うと、さらにもう少し後ろ斜め下)に意識を込めてこの呼吸法を行うと、この辺り( そけい部)が張ってくるのです。これにより演奏する時の体の重心が下に下がり 重厚な音がでるようになるのです。 たかが一週間で大きな変化です。Mu^sanは雅楽を初めてもう何年にもなりますが、 全くこのようなことを意識したことがなかったのでしよう。 一音だけ音を出し、その音を10秒ほど伸ばす練習をしたのですが、これまでとは、えらい違いです 。音に柔らかさと、膨らみがでてきました。 帰り際「おもしろくなってきた。。」と言って帰りました。また来るそうです、、、 僕は、笛吹きで篳篥の事はよくわかりませんが、底辺に流れている基本的要素はどの楽器も同じです。 ここが分かるとおもしろくなるのです。 まだまだこのおもしろさを知らない雅楽人が世の中には多すぎます。 伝えていかなければ。。 今日はこれから所用で山口県へ行ってきます。