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コロンビア大学雅楽コースのコンサート

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一応ここで手伝わせているので、今回の演奏について少し感じた事と、彼らが雅楽の中から何を学ばなければならないか、今後このコースをどういう方向へ向かわせなければなrないのかを客観的に考えてみたいと思います。 このコースができて約6、7年程、そして僕が最初にこの雅楽コースを見たのは2006年。ずいぶんと変わってきたと思います。何が変わったかというとまず舞台の上で“楽人らしさ”がでてきたということです。言い変えると、これは少し誤解を招くかもしれませんが、日本人らしくなってきたという事です。 僕はここNYで外国人に雅楽を理解する事が出来るのかという事をずっと考えています。日本人にジャズが理解できるのかに近いのかもしれません。 学生さんのほとんどが何か他の音楽をやっているので、音楽的感覚はみんな持っていてそして雅楽を一つの日本の音楽と捉えているようです。しかしこれは僕の感覚から言うと実は少し違うんです。とういうのはまずリズムの点から考えると、これは僕の理解からですが、拍子というのはあっても刻まれた拍子ではないという事です。唱歌は大事でこれ抜きには演奏は不可能ですが、この刻まれた拍子が体に染み付くと呼吸のリズムという感覚、若しくは音色の抑揚によって生まれるリズムという感性が育たなくなり、結果音色への拘りがなくなり、簡単にいうとおもしろくないものになってしまいます。曲に“音の伸び”というものなくなってくると思うのです。これは技術的な一面。 次に雅楽の中から何を学ぶかという事ですが、一番大切なのは所謂作法だと僕は思うのです。例えば楽座(あぐらをかく事)ができなかったら楽座をする練習、お辞儀の練習、正座をする練習、これらは日本的なものでこんな事やってたら雅楽まで辿りつかず、だれもアメリカでは寄り付かないと思うかもしれませんがやはりこれ抜きには雅楽の上達はあり得ないと今は思うようになってきました。そして大切なのはそれらができなくてもその部分が大切であるという意識を持つ事だと思うのです。実際そこを大切にできる学生は技術も伸びてきます。異国の文化を学ぶ時にその人達がどういう意識をもってその場に臨んでいるかを想像し、その気持ちを学ぶ事が一番大切だと思うのです。だから僕がアメリカ人に雅楽というものを理解してもらうために、彼らが何を考えているかを英語で学び知る事は絶対不可欠なので...

先日のコンサート at Japan Society

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先日のコンサートがYtubeにアップロードされていたので添付してみました。 音の出し方に関しての反省点はいくつかありますが、それはある程度自分で把握できているのでこれから少しずつ改良していきます。 音のない部分、無音という音をどうやっても生かしていくかは、これからさらに研究していかねばと思っています。

The Korean Society

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今週は韓国モードです。火曜日も韓国のコンサート、昨日のランチはコリアン、そして今日もKorean Societyで韓国の音楽を聞いてきました。 今回はコロンビア大学の雅楽コースからの招待だったので、雅楽コースの学生さんのかなり来てました。 韓国から来てるパフォーマーかと思いきやこちら在住の演奏家ばかりで、なんと申しますか垢ぬけた演奏だったと思います。 実はピアニストとベースは二日前に見た方々と同じでした。 一つ感じた事があります。 エンターテイメント性を突き詰める事。そして所謂伝統と言われている神聖な部分を保つ事。神聖の定義というのは時代とともに変わってくるでしょうけど、忘れてはならないのは原点。芸術は発展させなけれならないが、変えなければならない部分と代えてなならない部分があり、そこを良く見極めなければならない。 ちとワイン飲み過ぎたかな。。。

Korean Traditional Music

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昨晩韓国の伝統音楽のコンサートを見ました。 韓国の伝統楽器とピアノ、ベースとのコラボレーションで、ジャズ風にアレンジされていて落ち着きのあるコンサートでした。古典と現代音楽をうまく調和させて、シンプルなリズムでありながら躍動感あふれる空気を醸し出していました。 Piriという篳篥のような楽器は非常に滑らかな音で、雅楽の篳篥に比べ多少音色が軽い気もしましたが、巧みな技術で円転自在に音を操っていました。後で見せてもらいましたがリードは篳篥のに比べ多少長いようです。 下の楽器もまた雅楽の笙と親戚にあたるものでしょう。名前が分からなかったのですが重厚な音色を生み出していました。僕には少し人工的な音に聞こえたものの、温かみのある音であったように思います。雅楽の笙が17本の竹で作られているのに対し、これは20数本ありました。 アリランというのはすばらしいですね。日本人が聞いても何か懐かしさを覚えます。 古典の味を生かしながら現代風にアレンジされていて聞き心地のいい音楽でした。

からまれた。。

これを“日々是好日”とラベル付けしていいものなのかどうかわからないが、まあ何事も経験だ。 昨日友人のバイオリンのリサイタルに行き、帰りのことである。いつものマンハッタンのバス乗り場に行こうとさくさくと歩いていた時の事だ。急に突然前に歩いていたでかい黒人のにいちゃんが立ち止まる。。。彼の左手に僕が少しあたり何か落とした模様。メガネだった。。PM11時くらい 振り向くとかなり怖い目つきで僕を睨む。。。こりゃやべーと思いまぁ一応Soooryって一言述べて人ごみとまではいかないが、ある程度人がいたのでそこにまぎれ込もうとした。。バス乗場は二階だったので上に行って少し振り向くと何と彼が、なにやら僕を探している模様。。 やべーやべーと思いながら、心臓バクバク で、、、、、 知らぬふりをしようとしたが、見つかってしまった。。。 「メガネにひびが入った、、どうしてくれるんだ このやろう」 とりあえず、、すんませんって言い続けたが全く引くもようなし。 「とりあえず外でようぜ」って言ってくる。 うわーーこれはやべー、やべー、、ていうか心臓ばくばく。もちろんコンサートの五分前より。 これはまずいと思いさすがに断ったというか、全く英語ができないふりをした。。。 147ドル(中途半端、、)したからとりあえず金払えって今度は言ってくる。「カード持ってるだろ、今引き出しにいくぞ」って言うけど、全く英語ができないふりをしてみた。。 彼もだんだんかなりいらだってくる。。。遂には今いくらあるんだって聞いてきたから、とりあえず手持ちに40ドルあったから、どうしようか迷ったが、40ドルだけだしてみた。 しかしまだひかず。。 今度は親父を呼ぶと言いだす。。メガネが壊れたから前がみえねーって言い切る。 (今になって思うがなんで見えねーのに手でもってんだよ、かけとけよ) 携帯がないから今度は僕のを貸せと。しょうがないからこれまた貸してみた。なにやら分けのわからんスラングばかり使ってたから、僕には意味不明。。。 まぁいずれにせよ親父があと15分でくるから、親父を一階に迎えに行ってくる。ほんで一緒に戻ってくるからここで待っとけと。そしてもちろん僕の40ドルを持ち去る。 親父が僕に話をつけるんだと。 しかも僕はこの時、多少頭がパニクッてて、自分の...

天災について考える

先日、ある方が今回の地震についてお話をされました。 この地震を自分の事として捉える事。そして毎日我々が生かされているという事に感謝をして通るという事。 当たり前の事を当たり前に話されたのですが、これが実に僕にとって刺激的だった。“この地震を自分に起こった事してて捉える事”。これはまさに他者への思いやりと、自然に対する感性だと僕は思う。どれだけこの大事態を想像できるかということだ。だからここに心を寄せて今自分がしなければならない事に集中しなければならないと改めて感じた。 人間というのは深い所ですべて繋がっている。例えば東洋医学の針治療なんかは(医者でないので詳しくは知りませんが)一つの箇所を治療するのに全体を見て、体全ての繋がりを見ていくようだ。すべてが繋がっていて、人の体は小宇宙と考えられている。要するにバランスである。 こういうふうに考えるとき、どこかの歪があの東北という場所に起こったと考えれば人ごとであるとは考えにくい。今多くの方々が懸命に復興に向けて動いてるときだからこそ、少なくとも僕は僕自身として自分の生き方に反省をしたいというか、少なくとも、自分に対し何かが、何かを急きこまれていると感じる必要がある。というか感じるよう努めなければならないと思っている。 以前ローマ教皇がソーシャルネットワークの有用性、危険性について述べた事がある。現代は人と人との直接的な繋がりが希薄になったと言われている。一方でオンラインでの会話は急激に増え、顔を知らない人とさえも気軽に話出来る時代になった。オンラインの会話は本来の人間関係ではないと述べておられたが、今回twitterやfadebookでは海外からたくさんの励ましの言葉が送られてきて、これは大きな意味を持ったと思うし、世界というもは繋がっていると事を実感できた気がする。 それと今海外にいる僕にとって日本人の道徳の高さにも改めて感じいったし。これはとても誇り高きことであった。僕はこの日本人の道徳の高さは日本人の自然に対する感性の強さだと思っている。自然には逆らえないという事を本能的に知っていて忍耐強く過ごす。宗教を持たない人が多いと言われている日本だが、これほどの被害の中でのあの忍耐強さは他のどの国の強い宗教性を持った国であろうがかなうことはないであろう。 オバマ大統領は日本はこの地震を通じさらに...

自信

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先日Japan Societyにて日本へ向けてのチャリティーコンサートがありソロで吹かしていただきました。 今年2月に日本に帰った時龍笛を数年前まで使っていたのに変えて、人前で吹くにはもう少し時間が必要であったかなとも思っていたのですが、手ごたえは悪くなかったです。曲目は師匠創作の(火、水、風)と、童謡ふるさとを吹きました。 今回意識をおいたのは、とにもかくにもNYにきて自分の吹き方が崩れかけていたので“基本”に忠実にということを意識しました。 まずは全ての音に対して同じ口の形で吹きつづける事。それによりどんな音、メロディーがこようがポイントが外れないので同じ音色を保つ事が出来ます。 そして大事なのは歌口と口の距離を一定に保つ事、そのために笛を斜に構えること。実はこれが笛吹きにとって最も大切な基本の中の一つといってもいいかもしれません。 さらに僕が今回意識したのは、“自信”とは何なのかという事。少し分かったのは自信というのはもちろん無から生まれるのではないが、日々の努力から生まれるものでもない。音が出てくるから自信が生まれるということだ。音を生み出すには日々の積み重ねである事は間違いないが、音を出すにはコツがいる。何時間練習したってでない吹き方をしてたら音はでない。もちろんその費やした時間は自信には繋がらない。それの多くは今までの「龍笛の吹き方①~⑦」で書きました。 練習には順序がある。そして音が出てくるから自信が生まれ、落ち着いた演奏をする事ができる。いくら練習したかではない。 これはある意味僕の中での小悟である。 The New York Times   http://www.nytimes.com/slideshow/2011/04/12/arts/music/CONCERT-4.html                      http://www.nytimes.com/2011/04/12/arts/music/concert-for-japan-with-philip-glass-and-lou-reed.html